御祭神
- 応神天皇勝運・発展向上・弓の神様
- 仲哀天皇国家安寧・家運隆昌
- 神功皇后子授け・安産育児
- 東照大権現勝運・出世開運・健康長寿
HISTORYご由緒
伊賀八幡宮の起源は、松平四代・親忠公が
松平家(徳川家の祖)の守護神、
氏の神として
八幡神(やはたのかみ・はちまんしん)を
祀られたことに発します。
その後、徳川三代将軍・家光公が、
祖父・家康公(東照大権現)を祀る
こととされ、
現在は八幡神、
東照大権現をお祀りする社となりました。
伊賀八幡宮は徳川家の祖、松平家の四代目当主・親忠公が創建された社です。
応神天皇、応神天皇の母君・父君である神功皇后・仲哀天皇の三神からなる八幡神は、
武運長久・出世開運の御神徳ありと、全国の武家に広く奉じられておりました。
一方、創建当時の松平家は盤石な武門とは言い難く、堪忍の道を辿ります。
しかし九代目・家康公が先祖代々の悲願を果たし、天下泰平を成し遂げます。
戦乱の世を治め太平の世を築いた偉業を称え、家康公の死後、
後水尾天皇より「東照大権現」の神号が贈られました。
その後、家康公の孫にあたる徳川三代・家光公が、
松平・徳川両家の氏神である伊賀八幡宮に東照大権現をお祀りすることとされました。
ゆえに当宮・伊賀八幡宮を、武運長久で知られる八幡神と
乱世を勝ち抜き太平の世を開いた東照大権現をお祀りする「開運の勝神様」とするところであります。
応永初期 | 1400頃 | 松平氏 松平郷(現・豊田市)を治める |
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応永28年 | 1421 | 岩津城進出 |
文明2年 | 1470 | 四代親忠公、一族の統領として氏神・伊賀八幡宮創建 伊賀の国から八幡神を勧請 |
明応2年 | 1493 | 井田野の合戦、親忠公が「厭離穢土欣求浄土」の旗印を用いる |
天文元年 | 1532 | 七代清康公、社殿を造営、弓矢を奉納 |
天文4年 | 1535 | 八代広忠公、守山崩れに続く四次井田野の合戦にて、 伊賀八幡宮からの 神恩奉賽のため、広忠公が社殿を造営、弓矢を奉納 逸話 |
天文11年 | 1543 | 松平九代として家康公が誕生 |
永禄元年 | 1558 | 家康公、初陣のために必勝祈願逸話 |
永禄3年 | 1560 | 桶狭間合戦、矢作川で神鹿が家康公をお助けする逸話 |
永禄9年 | 1566 | 三河国を統一・徳川復姓を勅許・朝廷から 三河守に任じられ名実ともに三河の覇者となる 神恩奉賽として直筆の戸帳を奉納、社殿を造営、 200石の寄進 |
元亀元年 | 1570 | 浜松城に移る |
慶長5年 | 1600 | 関ヶ原の合戦のため、必勝祈願の神楽を奉納逸話 |
慶長7年 | 1602 | 鳥居の神威を畏み、社領の加増、御宸筆奉納 |
慶長8年 | 1603 | 江戸幕府を開く |
慶長16年 | 1611 | 家康公、社殿を造営 |
元和元年 | 1615 | 大坂夏の陣・鳥居が鳴動し西へ動く 鳥居の神威を畏み、社領の加増、 本殿屋根葺き替え、宝物の寄進 戦国時代が終わる 逸話 |
寛永11年 | 1634 | 家光公上洛の際、老中による代拝 |
寛永13年 | 1636 | 家光公、家康公が造られた社殿を増築するかたちで造営・境内整備 家光公の命で東照大権現を合わせ祀る、 幕府ご朱印領(領地540石) |
寛文2年 | 1662 | 家綱公、金千両を献じ修復 |
元禄11年 | 1698 | 綱吉公、修復 |
宝暦4年 | 1754 | 家重公、銀子50枚を献じ7か國の御府内に勧化して仮葺 |
安永7年 | 1778 | 家治公、金七百両を献じ修復 以後も幕府の協力により度々の修膳を行う |
慶応元年 | 1865 | 家茂公、上洛の折参拝 |
慶応3年 | 1867 | 大政奉還 その後も現在に至るまで、徳川宗家の崇敬を受ける |
父・松平七代清康公が急死し、当時わずか10歳の八代・広忠公が、岡崎城を目指し攻め込んできた織田信秀(信長の父)を迎えうった際。
伊賀八幡宮に戦勝を祈願した広忠公は、井田ヶ原にて織田勢と対峙。そのとき突然、松平陣営の先頭に
白馬に乗った武者が現れ、敵陣めがけ白羽の矢を放つ。
すると伊賀八幡宮の神殿が鳴動し、宮の森の上からは黒雲が湧き上り白羽の矢が雨霰のように敵陣に
降り注いだ。
たちまち敵は敗走し、広忠公は戦に勝利されたという。
無事岡崎城を守った広忠公は「伊賀八幡宮の御加護也」と感激し、みずからその神矢を拾い
神前に奉納された。
初陣となる寺部城攻めの際、伊賀八幡宮に参拝し必勝祈願のうえ出陣したところ勝利を得た。
そのため、以後大きな合戦の前には必ず伊賀八幡宮に祈願し、武の神として篤く崇敬された。
今川勢が敗れ、退却を余儀なくされる。
追っ手を逃れようやく氏寺である大樹寺が近づいたが、対岸へ渡る川瀬が見つからず迷っていた。その際、一頭の鹿が現れる。
家康公は「あの鹿は伊賀八幡宮の使いに違いない」と信じ川を渡って大樹寺に入り、間一髪織田勢との衝突を避けた。
神殿が鳴動する、石鳥居が西に移動するなど、不思議な吉兆があったと伝えられる。
このようなことから、松平家および徳川将軍家の守護神として、長きに渡り深く信奉された。
伊賀八幡宮の境内にある建造物の多くは、国の重要文化財に指定されております。
とりわけ目を惹く極彩色の社殿は、本殿が家康公による造営、拝殿が家光公による造営であることから、
二人の将軍による合作とも表せるでしょう。
同じく東照大権現をお祀りする栃木県・日光東照宮は「寛永の大造替(かんえいのだいぞうたい)」により創建当時の
社殿の規模や配置が一新されているため、伊賀八幡宮は家康公・家光公お二人の意向を今に残す、
ほかに類を見ない社であります。
昭和8年(1933)、伊賀八幡宮の本殿、幣殿・拝殿・透塀・御供所・随神門・神橋・石鳥居および棟札4枚が
国宝に指定され、戦後、法改正に伴い国の重要文化財となりました。
伊賀八幡宮が重要文化財に指定されている所以として、個々の建物が江戸時代初期の建築を代表するものであり、
建物の多くが揃っていることから江戸時代初期の神社配置形式をよく伝えている点が挙げられます。
さらに境内にある蓮池も、家光公によって造られました。現代では蓮は仏教の象徴と捉えられていますが、
家光公の時代は神仏習合でありました。色とりどりの蓮が池一面を満たす姿には、
天下泰平に至るまでに文字通り命を尽くした者たちへの弔意、そして徳川家が掲げた「厭離穢土欣求浄土」の
願いが込められていると考えられます。