徳川家とのゆかり

RELATION

伊賀八幡宮は、1470年に松平四代
親忠公により創建され、
松平家九代目の
徳川家康公、続く徳川将軍家も
先祖ゆかりの氏神として当神社を
重んじました。
こちらでは、松平家・徳川家との
つながりをご紹介します。

戦勝と泰平を願って

徳川家康公が旗印に用いた「厭離穢土欣求浄土」
(オンリエドゴングジョウド)。
「穢れたこの世を厭い、平和な極楽浄土へ生まれ変わることを心から願う」という意味の言葉です。
徳川家の祖である松平家・四代目親忠公が初めて旗印に用いられ、この言葉と想いを家康公まで代々受け継がれました。
戦乱の世は、多くの武将が天下を争い、戦のたびに戦死者が絶えない穢土でした。
誰もが自分の一族の勝利・繁栄を願うなかで、松平親忠公、徳川家康公は地方の一豪族であったころから
「厭離穢土欣求浄土」を掲げ、戦乱の穢れた世を平和な極楽浄土へ変えることを願ったのです。

260余年の天下泰平という類まれな偉業を成し遂げた家康公。
そして、その家康公を輩出した松平家の平和への
願い。一族の氏神・伊賀八幡宮に託した願いを
紐解きます。

松平家の願い

徳川家の祖・松平家は、室町時代に三河国加茂郡松平郷(現・豊田市)に興った小豪族です。
松平郷は山間の小集落、当時の松平家もまだまだ弱小の武門でした。
しかし二代・泰親公の代で岩津(現・岡崎市)に進出し、平野部へと勢力を拡大しました。

家康公に大きな影響を与えたのが、
四代・親忠公です。
親忠公は合戦での戦死者を敵味方問わず弔う千人塚を築き、一族の繁栄のみならず天下の泰平を
願う方でした。

文明2年(1470)、応仁の乱が続く最中、親忠公は、
松平家の守護神として伊賀八幡宮を創建されます。
戦乱の世を平定し、戦の悲哀のない穢れなき世の中を築くため「勝利」を強く願ってのことでした。

親忠公の願いは後世に受け継がれ、九代・家康公の
時代についに実を結びます。

家康公の想い

祖父、そして父も家臣に暗殺された家康公は、
弱冠7歳で松平家当主になります。
幼いながら将の器であった家康公は、
譜代の臣と共に天下統一への道を歩み出します。

数多の合戦を戦い抜いた家康公は、大きな戦の前に
必ず伊賀八幡宮を詣でられました。
八幡神を前に家康公が胸に抱くのは、一族の悲願、
松平親忠公から代々受け継ぐ天下泰平への
強い想いであったことでしょう。

篤信の甲斐あり折々の好機を勝ち取った家康公は、
ついに征夷大将軍となり江戸幕府を開きました。

家康公の偉業は徳川家の安泰に留まらず、戦乱の世を
平定し260年に及ぶ泰平の礎を築かれたことです。
まさに、伊賀八幡宮を創建された松平四代親忠公の
大願が成就したといえるでしょう。

天下人となって以降も、家康公は伊賀八幡宮を篤く
崇敬されつづけました。
例えば現在の本殿は、慶長十六年(1611)に家康公の
命により造営されたものといわれています。
その他にも社殿の造営や、神殿の戸帳に名を自筆して
の献納、御陽成天皇の御神号宸筆の額を奉納される
など、折にふれ伊賀八幡宮を尊ばれました。

家光公が継いだ大願

十五代に渡る徳川将軍家のなかでも、
特に当宮と縁深いのは、徳川初代・家康公の孫である
三代将軍・家光公です。

家康公を敬愛する家光公は、
祖父に倣い伊賀八幡宮を篤く崇敬されました。
その象徴が、当宮に東照大権現(徳川家康公)を
お祀りされたことです。
これにより伊賀八幡宮は日光・久能山とともに、
将軍みずから祀ることを定めた数少ない東照宮の
一つとなりました。

さらに家光公は、家康公の造られた本殿を増築する
形で権現造の社殿を造営。
また現在、伊賀八幡宮の名所として知られる
蓮池を造られたのも家光公です。

泥の中から美しく大きな花を咲かせる蓮は、
「戦で穢れた乱世を平和な極楽浄土へ変えよう」と
いう願いに重なります。
家光公は、極楽の象徴である蓮の花の池に祖父・
家康公、そして松平親忠公の掲げた平和への想いを
託されました。

この後も代々の将軍から当宮への寄進の記録が残るなど、徳川家は伊賀八幡宮を父祖ゆかりの岡崎の氏神として重んじ、共に歴史を重ねていきます。
「厭離穢土欣求浄土」が象徴する松平家・徳川将軍家の大願と泰平の世への祈りは、蓮の花とともに家光公の時代から今日まで受け継がれています。